著者:GATER KAZUKI
みなさん、こんにちは。GT-Rオタクこと、GATER KAZUKIです。
今回は「R32 GT-Rが生まれるまで」についての記事です。ケンメリGT-Rの悲劇から始まって、沈黙の16年間に日産が何をやっていたのか、なぜアテーサ4WDを採用することになったのか、私の独断と偏見と若干の妄想を交えながら、思う存分語っていきたいと思います。
「独断と偏見と妄想」と書きましたが、ちゃんと裏付けのある話もしますのでご安心ください。
ケンメリGT-Rとは何だったのか──「197台しか売れなかった」は誤解
まず最初に、世間の誤解をひとつ正しておかなければなりません。
「ケンメリGT-Rって、197台しか売れなかったんでしょ? やっぱりイマイチだったんじゃないの?」
これ、完全に間違いです。
KPGC110型スカイラインGT-R、通称「ケンメリGT-R」が197台という数字で終わったのは、車がダメだったからでも、売れなかったからでもありません。売っている途中で、時代が終わったのです。
1973年1月に発売されたケンメリGT-Rは、S20型エンジン(2.0L DOHC 24バルブ、160ps)を搭載した、当時の日本車としては文句なしの高性能車でした。ハコスカGT-Rがレースで73連勝という伝説的な成績を残した後継として、期待値も最高潮だったわけです。
それがわずか4ヶ月でラインを止めることになったのは、以下の3つの災害が同時多発したからです。
まず石油ショック。1973年10月、OPEC加盟国が原油の生産を制限したことで、ガソリン価格が爆上がりしました。「車を買うなら燃費重視で」という空気が一晩で日本全国を覆い、高性能スポーツカーを好む人が極端に減ってしまいました。
次に排ガス規制。マスキー法を参考にした厳しい排ガス規制が施行され、高回転型のS20型エンジンは当時の技術では対応が非常に困難な状況に追い込まれました。
そしてレースの自粛。日産とトヨタが国内レースへの参戦をやめてしまいました。「レースに勝つための車」であるGT-Rから、レースという舞台を取り上げたら、存在意義がなくなってしまいます。
この3点セットで、ケンメリGT-Rは幕を閉じました。車の問題ではなく、完全に時代の問題です。S20型エンジンは紛れもない傑作でした。あの時代に生まれたことが、唯一の不運だったと思います。
「沈黙の16年」に日産は何をしていたのか
1973年にGT-Rが消えて、次に復活するのが1989年のR32です。16年間の空白。
「この間、日産は何もしていなかったのでは?」と思う人もいるかもしれませんが、全然そんなことはありません。もっとも、日産がすごいとか偉いとか言いたいわけではなくて、R32というゴールが素晴らしすぎるから、そこに至るプロセスも語る価値がある、という話です。
ここから先は、公式に記録されている事実と、推測が混ざってきますので、一応ご注意ください。
1977年頃、R30スカイライン向けにFJ20型エンジンの開発が進みました。ターボチャージャーとの組み合わせを積極的に模索し始めた時期で、FJ20ET型は市販車として170psを達成しています。「あ、ターボに本気になってきたな」という感じの時期です。
1983年には、R30スカイラインRS-TurboがグループAのホモロゲーションを取得します。レース復帰を本格的に視野に入れ始めたわけです。私の推測ですが、この頃から社内のどこかで「そろそろGT-Rを…」という声が出始めていたんじゃないかと思っています。根拠はないですが、そうであってほしいという気持ちも込みです。
1985年頃からRB型エンジンの開発が本格化します。このエンジンがのちのRB26DETTの礎になるわけですが、私はここに「次のGT-Rはこれで行く」という意思決定の瞬間があったと思っています。6気筒でいく、ツインターボでいく、という方向性が固まった瞬間です。結果的にその判断は正解でしたが、それはあくまで結果論だと思います。
1986年、R31スカイラインGTS-Rが200台限定でグループA参戦用に製造されます。RB20DET-R(200ps)搭載のこの車は、グループAの過酷なサーキットで走り回るわけですが、ここで日産は決定的な現実を突きつけられます。
グループAが教えてくれた残酷な真実──「FRじゃもう勝てない」
R31がグループAで戦い始めたとき、ライバルはポルシェ959やアウディクワトロでした。
4輪にトルクを分散して、コーナー出口で暴力的なまでの加速をしていく彼らに対して、FRのR31はターボが効き始める瞬間に後輪が空転して、まともにトラクションをかけられない。どれだけエンジンを頑張っても、路面に伝わらなければ意味がないわけです。
「後輪だけでは、もはやコントロールの限界が先に来てしまう」という言葉が開発関係者から残っていますが、これは敗北宣言に近い言葉だったと思います。でも同時に、次のステップへの覚悟でもあったはずです。
「じゃあ4WDにするしかないじゃないか」と。
ただし、ここで単純に「4WDにしよう」とはならなかった点が、R32という車を語るうえで重要なポイントです。4WDにすれば確かにトラクションは上がる。でも重くなる、鈍くなる、スポーツカーっぽくなくなる。「それじゃGT-Rじゃない」という議論が社内で相当あったはずだと想像しています。
ここで誰かが言ったはずなんです。「通常はFRで走って、必要なときだけフロントにトルクを送ればいいじゃないか」と。
この発想の転換が、アテーサE-TSの誕生です。
アテーサE-TS
ATTESA E-TS(Advanced Total Traction Engineering System for All – Electronic Torque Split)。要するに「普段はFR、ヤバくなったら4WD」です。
通常走行時はほぼ100%後輪駆動で、後輪スリップを検知するとフロントへのトルク配分を0〜50%の範囲でリアルタイムに制御します。HICASとセットで、R32のコーナリング性能を支える柱として語られることの多いシステムです。
ただ、正直に言うと私はこの手の電子制御があまり好きじゃないです。「変な電子制御をつけんじゃねえよ」派です。アテーサもHICASも、本格的に走る人間はみんなキャンセルしているわけで……まあこのあたりの話は長くなるので、別の記事でちゃんとやります。
R33について一言
R32の記事なのにR33の話をするのは反則かもしれませんが、どうしても言いたいことがあります。
R32の後継として1995年に登場したR33スカイラインGT-Rは、確かに性能が上がっています。車体の剛性も上がりました。快適性も上がりました。
でも重くなりました。
R32の1,430kgに対して、R33は1,530kg。100kgの差。これは致命的な問題です。R32が持っていたあの「軽快さ」「ダイレクトさ」「自分の意思で車を動かしている感覚」が、100kgの重さの下敷きになってしまったと感じています。
R33オーナーの方、ごめんなさい。でも私はそう思っています。R32こそが唯一無二だと、これからも言い続けます。
R32 GT-R誕生──これが「16年分の回答」です
1989年8月21日。BNR32型スカイラインGT-Rが世の中に登場しました。
RB26DETT型直列6気筒DOHCツインターボ(2,568cc)に、アテーサE-TSと後輪操舵システム「HICAS」を組み合わせたこの車は、発売直後からグループA選手権に参戦し、1990年から1993年にかけて29連勝という記録を叩き出しました。
ニュルブルクリンクでのラップタイムが話題になり、世界のメディアが「ゴジラ」と呼び始めました。
でも私が一番好きなのは、そういったわかりやすいエピソードではなくて、R32が持っている「必然性」なんです。ケンメリが消えた1973年から、エンジンを磨いて、レースで負けて、4WDを研究して、ようやく「これだ」というものが完成するまでの16年間。その積み重ねのすべてが、RB26DETTのエンジン音に詰まっている気がするんです。
メーカー自体に思い入れはないですし、これからも大してないと思います。でもR32という車には、どうしようもなく惹かれ続けています。この車だけは特別なんです。メーカーの話じゃなくて、この1台の話として。
ケンメリが時代に殺されて、16年後にR32として蘇った。そのドラマを知っているかどうかで、R32という車の見え方はまったく違ってくるはずです。
知らずに乗るのと、知って乗るのとでは、エンジンをかけた瞬間の感慨がまるで違います。よりR32を愛していきましょう。
以上、GATER KAZUKIでした。
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